2-100 3畳一間の歌
私にも39年前(1970年)の20歳の頃があった。当時、中野区野方の古い一軒家の3畳一間に1年間住んでいた。他に6畳間と8畳間があり、6畳間には一人の学生が、8畳間には3人の学生が借りていたようだ。台所・トイレは共同、浴室はなかった。
昼間は高円寺北口の商店街(今は純情商店街通り)にあった本屋で本の配達をし、夜は夜間大学に通学していた。私は何もわからないまま、半ば家を飛び出すようにしてここに出た。確か本屋の給料は2万円で、アパート代は4,500円であった。毎日の食事、洗濯、買い物、銭湯に行くことなど、どこでどうしてよいか適当な判断ができなかった。私ができたことは、毎日のように中野北口のサンモール、ブローウエィ商店街にある「春屋」という本屋に立ち寄ることと、休日に図書館に通うことであった。
目指すは家からの「独立・自立」であった。しかし、当時の言葉で言うと、3ヶ月後に早くも「挫折」してしまった。その後は大学には行かず、本屋も辞めてしまった。秋からは他のところでアルバイトをしながら、アパート生活は続けたが、1年後には家に舞い戻ってしまった。思うように生きていくことはできなかった。それでも、この1年間はまさに「独立・自立」のスタートであった。
3年後の1973年。この歌がはやり同棲時代とも言われた。
神田川(かぐや姫)
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/kandagawa.htm
今でもカラオケに行くと私も懐かしく歌うが、私には書くまでもないのだが、この歌のような事実はもちろんなく、この歌のような世界を身近に感じたこともなかった。あるとしたら「3畳一間の小さな下宿・・・」というくだりだけだ。と、当時も今も複雑(?)な思いが湧いてくるのはなぜだろう。
神田川は今も「切ない憧れ」だろうか。神田川は永遠に届かない世界であったであろうが。
1969年、次の歌は真に身にしみた現実であった。私にはどちらも切ない3畳一間の歌である。
ひとり寝の子守唄(加藤登紀子)
http://www15.plala.or.jp/hiroiosa/index-ikinuki-mysong-hitorinenokomoriuta.htm
先月(11月)のある日、当時の頃を思い立って高円寺の駅を降りた。当時歩いた本屋のある商店街からアパート、サンモール・ブロードウエィ、中野駅までゆっくり2時間かけて歩いてみた。「神田川」「ひとり寝の子守唄」を口ずさみ、当時の切ない思いに浸りながら。そして、切ない思いは、さらに切なさを増した。
商店街は当時よりかなりにぎわっていた。つまり、それだけ当時のお店も風景も変わり、勤めていた本屋もなかった。本屋があった場所も特定することさえできなかった。昼食を食べた2~3件の店もなかった。私は何一つここから当時の思い出につながるものを発見できなかった。これが40年の歳月というものか。
そして、アパートもなかった。早稲田通りから入る路地も自身がもてなく、アパートがあった場所も特定できなった。2~3の路地を何度も往復してみたのだが、私はここでも何一つ記憶につながるものを発見できなかった。私の「独立・自立」の原点、3畳一間は消えた。
疲れた足取りでサンモール・ブロードウエィ商店街に向かった。ここのお店は覚えがある店が何件かあった。何より「春屋」が健在なのは嬉しかった。だいぶ本の並べ方など違うが、一回りしながら、「あの時買ったあの本はこのあたりに置いてあったのだ」などと記憶がよみがえってきた。最後に当時も一人たたずんでいた駅前の公園のベンチに、当時のように本を広げて座った。
ところで、今月20日の社会福祉士事務所経営懇談会は、「独立・自立」の原点の地であるこの中野で行われる。実はもう一つの原点がここにある。それは、独立開業して2年目の2002年4月21日、この「すまいる中野」で初めて私は、「社会福祉士事務所開業」をテーマに講演(主催 東京社会福祉士会)したのである。あれから6年半、この街に住んでいた時から39年たった今も私は「独立・自立」を問うているのだ。3畳一間の歌を歌い続けているのだ。
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